§ 「幻想の閻魔、四季映姫よ。おぬしを一週間の謹慎処分とする」 「なぜです!?」  四季映姫・ヤマザナドゥは我を忘れて柵を叩くが、それ以上の言葉を継げなかった。  講堂ほどの広さがあるドーム状の部屋の周囲には、映姫の数倍はあろう巨漢が全部で十人。いずれも真っ赤な顔に口をへの字に曲げ、吊り上がった眼差しで映姫を見下ろしている。  彼らの巨体を支える椅子の頭上には表札じみた看板が掲げられており、記された名は右から順に秦広王、初江王、中略、五道転輪王「端折るなや」  映姫が現在いる場所は十王会議室。その名に違わず亡者を裁く始祖の十尊による会議にして、是非曲直庁の全てが恐れおののく最高決定機関だ。今日突然の呼び出しを受け、多大な不安を胸に秘めて馳せ参じたところ有無を言わさず告げられたのが、これである。 「受け入れられぬてか。我ら十王の処断なるぞ」  秦広王の威厳と威圧に満ち溢れた言葉が、映姫をも萎縮させる。相手は有史の頃から死者を裁いてきた存在だ。彼女とは格が違い過ぎる。  だが、踏み止まった。恐縮したい衝動をこらえて、十王たちを見据える。 「恐れながら、納得のいく説明をいただければと思います」 「ほう、では今までのおぬしの振る舞いに一片の落ち度もないと言うのか?」  十王の三、宋帝王の問いに口ごもらざるを得なくなった。 「た、多少は無きにしも」 「では、心当たりを申してみよ。無論、浄玻璃の審判がなくとも答えられようぞ」 「わ、渡し守の仕事はどうにか矯正させますので。どうかあの娘には、寛大な措置を!」 「全然違ぇよ、馬鹿者」  柵に身を乗り出した体勢で、しばし凍りつく。  その様子を眺める十王たちの一部が天井を見上げるなど、呆れの空気が会議室を満たした。 「ヒラ死神の振る舞いなぞに、我らがいちいち目くじらを立てると思うてか。しかもその様子では、本当の理由に気づいていないと見える」  全身の汗腺が噴水に変わったような気分を、映姫は味わう。自身の落ち度、及び目下最大の頭痛のタネと言えば、毎度お馴染み三途のサボリ魔・小野塚小町以外に思いつかなかったのだ。 「では何ゆえに――当月の地獄行きは三人と特段多いと呼べる人数でもなく――それでも地獄行きを一人も出さないことが私の悲願であるのは紛れもなき事実であり――その――」 「そう、まさしくそれよ四季映姫!」  木槌を打つ音が会議場に鳴り響く。  発言したのは十王の五にして十尊の中でも随一の発言力を持つ王、閻魔王であった。現在の閻魔制度の大半を定義し、是非曲直庁の基礎を作った存在。 「裁きは我らが原罪であるがゆえに、おぬしの考えはいたって正常である。しかし少々それに固執しすぎて視野が狭くなっておるようだ。まずはこれを見るがよい」  鎖を鳴らす音。会議室の中央に姿見と呼ぶにはあまりに巨大な鏡――オリジナルの浄玻璃が鎖に吊られて降りてきた。 「私の罪を、映すというのですか」 「左様、とくと見よ。これがおぬしの、幻想の閻魔の罪よ」  鏡像が歪み、映姫の過去を鏡面に結び出す。  映姫は息を飲んで、その変化を凝視した――  §  わずかな蝋燭の光のみに照らされた、薄暗い室内。 「まったく、あなたもよくよく懲りていない」  剣呑な言葉の後に、映姫は手にしたティーカップで軽く口を潤した。  微かな湯気が、彼女の鼻先で揺らめく。それにくすぐられたのか、映姫は軽く瞬きをした。 「残念ながら。閻魔様の前では、どんな完璧主義者だって懲りない面々になってしまいますわ。しかも重箱の隅を突き過ぎる自らの言動を自覚しておりながら、ご自分は口うるさいくらいで丁度いいとすら思っていらっしゃる」  丸テーブルを隔てて映姫と対しているのは、不気味な少女であった。  外見こそ少々癖のある髪の毛を持つ、年端もいかない娘子と変わらない。異様なのは心臓のあたりに浮かんでいる、拳大ほどの球体。周囲から伸びる六本のチューブによって少女の体に絡みつき、そして球体に埋め込まれた眼球は彼女の視線の動きに合わせてギョロギョロと蠢く。 「誰しも死ねば口なしです。彼岸の裁きの場に立てば、反論する余地すらなく生前の罪の重さに応じた説教を聞き続けねばなりません。生きているうちから我慢できなくて何としますか」 「その辺はもう、聞き飽きるほど聞いております。しかしですね、生きながらにして閻魔様のお説教が聞けるのは幻想郷くらいなものでして。生きているうちから罪業を祓わせようとする『ヤマザナドゥ』のお考えはいくぶん奇矯なのではありませんか?」 「多くの閻魔が、多かれ少なかれ実行していることです。ある者は信仰を足がかりとし、またある者は伝承の流布を促す。もっとも私の場合は幻想郷という土地の特殊性に頼っている面が大きいですが――なんですか、そんな顔をして。私がちゃんと本心から言ってることくらい、あなたにはわかるでしょう?」 「ええ、それはもう」  映姫は顔を顰め、微笑する少女の顔を眺めた。 「ただ、閻魔様自らが現場に赴いているのは、話を聞く限りあなた一人のように思えます――仮定の話をしてもよろしいでしょうか?」 「意味がわかりません。言いたいことがあるならはっきり言ってください」 「それでは。閻魔様、彼岸では孤立しておいでではないです?」  映姫が口に含んだ紅茶を噴き出しかける。 「――いきなり何を言い出すんですか、あなたは」 「はっきり言っていいと許可はいただけましたもので。閻魔様はサボり死神を引っ張り回している時くらいしか、お連れの方を同伴させることがありませんよね。もしかしてお仕事の時もワンマンでいらっしゃらないかと、少々気になってしまいますわ」 「それは私が個人的に非番の間を縫って来ているからであって、職員は基本的に多忙なんです。ええ、ええ、確かに昼食は一人で食べてますし、忘年会と新年会以外で飲みに誘われることはありませんとも。しかしそれを疑問に思ったことは一度もないですしその必要も感じない」 「でも、たった今感じましたよね?」  映姫がテーブルに置いたティーカップが、少し大きな音を立てた。 「あれ、もしかして自分部下とのコミュニケーションとか上手く取れてないんじゃね? って今ちょっとだけ思いましたよね?」 「やめなさい」 「厳格であることにこだわり、小さなミスに対してすら己のことのように取り組んだ。それがかえって部下たちを遠ざけているのではないかとも考えておられるようで」 「やめて」 「ああ、これはまずい。こんなことでは目の前の罪を重ねた妖怪に堂々と説教することなど」 「やめろっつってんだろこの野郎。ていうか、そんなことまで考えてない」  テーブルを拳で叩いた衝撃で、ティーカップが軽く揺れる。  その体勢のまま、しばし固まる映姫。  笑う少女。 「――すみませんね。私も少し調子に乗ってしまいました」 「もう少し、慎ましくしていたらどうですか。片端から他者の心を覗き見るから、この館には誰も訪れないのです」 「その誰も訪れない館に月に一度は説教に訪れるのは、どこのどちら様でしょうかね」  大きく、深く息を吐き出す。 「あなたとのやり取りは、いつも調子が狂う」 「一応、感謝はしているのですよ? こんな鬼すら近寄らない館の主にまで慈悲を与えようと欲するあなたの献身。それが少々嬉しくて、つい意地悪をしてしまうのです」 「本心で言ってるから始末に悪いですね、あなたは」  傍らに置いた制帽を手に取った。 「長居しているわけにはまいりませんので、そろそろお暇します。今日も周りたい場所は多い」 「そうでしょうね。非番の時間は有効に使わないと。ああ、それからもう一つ」  椅子から立ち上がりかけた映姫の姿を、少女が見上げる。 「何か抱え込むようなことがあれば、またいつでもお越しくださいな。あなたは全ての悩める咎人のお味方。それらの面倒をまとめて背負おうとするがゆえに、自分のことにまで気が回らないご様子。孤高は時として心を病みますわ」  薄笑いを浮かべた少女の顔を、しばし凝視。 「その手には乗りませんよ。私の手抜かりに乗じ心の隙を覗き込み、楽しもうとしている魂胆が見え見えですからね」 「あら、さすがですね」  §  浄玻璃に映る光景を眺めながら、映姫が硬直している。顔を流れ伝う汗の勢いは止まらない。 「――これが、罪であると?」 「いかにも」  閻魔王の短く簡潔な肯定は、汗の勢いをさらに強めるのに十分であった。 「あれは怨霊管理を委託する、古明地さとりではありませんか。妖怪のあり方を放棄して自ら地底に篭り、なお妖怪同士ですら慣れ合わず他者を拒絶する罪人ゆえ、時折目をかけて」 「知っておる」  映姫の目が泳いだ。 「よもやあれの住処で茶を共にすることに問題があるとお考えですか。全菩薩に誓って、私はあの者に懐柔などされてはおりません」 「それも知ってるっつーの。よいか、庁の嘱託妖怪とのやりとりなどは氷山の一角に過ぎん。本当に問題なのは、おぬしがサトリ妖怪と茶を嗜んでいる『時』にあるのだ。是非曲直庁内規第十七条、まさか忘れたわけではあるまいよ」  なお混乱を覚えながら映姫は想起する。彼女の白黒はっきりつける能力は、否応なしに記憶野から自動装置じみて職員の誰もが暗記する内規を紡ぎ出した。 「閻魔の労働状態を鑑みて、閻魔は一担当箇所につき二名以上を配置する。各閻魔は、各々の担当時間を協議の上決定する――この規則が、何か」 「では、おぬしがサトリ妖怪に説法たれとる時間はなんだ」 「え」  それ以上の言葉を失う。  浄玻璃には新たな映像。人里で、神社で、街道で、草原で、湖畔で、山岳で、妖怪の拠点で、幻想郷のありとあらゆる場所で人妖の悪行を咎める映姫の姿。 「まさか。いや、しかし、あれは」 「その、まさかだ。おぬしの非番中に説教しに向かうのが大問題なのだ!」  映姫の顎が、カクンと落ちた。 「労働は美徳。おぬしの地獄に落ちる亡者を一人でも減らしたいという心がけも立派である。だが非番の時間をそれに充てる行為はいささかやり過ぎであるぞ。儂らが何ゆえに是非曲直庁を設け閻魔の尊格をおぬしらに与えているか、考え直してみよ」 「それは死者の溢れを防ぐためでありますが。しかし私は決して無理などしてはおりませんし、閻魔の格を笠にして越権を働いたわけでも」 「おぬしがそうではなくとも!」  ガンガンガンガンガンガンと閻魔王が一文字ごとに木槌を叩く。 「おぬしの振る舞いが他の閻魔や庁職員の目に止まり、皆がさも当然と考え真似をするようになるのは拙い。此岸ではブラック企業いうのが大流行りで、美徳を盾に過酷な労務を課す者が増えておるこのご時世、全生者の終着地たる我々がその見本となってはならんのだ」  呆気にとられる。自らの能力を以ってしても、犯した悪行に気付けなかった理由がこれか。  それは時代の流れ。ファッキン根性論。 「よって十王会議はこの事実を重く捉え、おぬしに強制で休暇をとらせねばならんと判断した。よいな映姫、これは決定事項だ。反発は許されまいぞ――浄玻璃と悔悟の棒を出すがよい」  映姫はしばし逡巡した。しかし十王会議の決定は絶対である。観念してポケットより八角形の手鏡、そして卒塔婆を長さ一尺ほどに切り詰めたような形状の笏を取り出す。 「それらは謹慎期間中、十王が預かるものとする。謹慎と言うたが、慎ましくあれば蟄居しておる必要はない。ただし期間中の登庁、庁職員との職務に関わる会話、その他職務に類すると判断される行為は一切禁止する。わかっていようが、それらの行為はどんな場所で行われても我らの目から逃れられぬと心せよ」 「はあ、それでは、しかし」 「なんだ、まだ何か異論があるのか」  勇気を振り絞り、声を震わせる。 「そ、それらのことを封じられて――私は謹慎期間中何をしていればよろしいのでしょうか!」  轟音と共に、十王全員が椅子から転がり落ちた。  体勢を立て直すこと、しばし。 「モノホンのワーカーホリックか、貴様! 庁職員のプライベートまでわしらはいちいち指図しとうないわ。庁の職務に類する行為、それ以外! そこから先は自分で考えんかい!」 「職務以外」 「そうだ! 我らからの話はここまで。退室を許可する。て言うか、とっとと行けい!」  その瞬間。十王たちは内心、映姫の姿に慄然とする。見よ――ありとあらゆる希望を失った罪人もかくやの、その立ち姿を。濁ったガラス玉を思わせる、その瞳を。 「わかりました、やってみます――職務以外――はあ、職務以外とは――」  刑場に向かう亡者の足取りで会議場を後にする映姫の背中を、十王たちは無言で見送った。  § 「あっはっはっはっはっ!」  酎ハイを手に抱えたまま映姫の相談を豪快に笑い飛ばす小町の笑顔を見ているとツーサイドアップに結い上げた頭をブッしばきたい衝動に駆られたが、謹慎期間中につき辛うじて堪えた。そも今の映姫の手には、罪を打ち祓う悔悟の棒がない。 「笑い事ではありません。私にとっては重大な問題なんです」  重苦しい言葉と共に、爪楊枝に刺さった蒟蒻玉で皿の上の味噌を攪拌する。 「いくら重大でも、余暇の使い方を教授してもらいたいなんて相談持ちかけてくるのは映姫様くらいですって。有給全然使ってないでしょ? あたいとしちゃ分けてもらいたいくらいで」 「半年も経たずに休暇を使い果たす子に分けたら、休みが可哀想だわ」  もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅと時間をかけて蒟蒻玉を咀嚼。 「あなたサボタージュにかけては天才的でしょうに。日がなつまらない言い訳を捻り出しては作った余暇を何に使ってるの。もーこういう時くらいは頼りになるところをお見せなさいよ」 「褒められてんだか貶されてんだかわからん評価ですな、そりゃ」  カウンター向こうの居酒屋店主に追加の酎ハイをオーダー。 「あたいのことよりも、映姫様ご自身がどうであるかが問題じゃないですかね、こういうのは。なんか趣味とかお持ちでないんですか」 「趣味」  短く呟いたが最後、新たな蒟蒻玉に爪楊枝を突き立てる。  味噌を塗る。  もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ。  嚥下。 「つ、通勤路にポイ捨てされてる空き缶ゴミを拾った数をカウントすることとか」 「趣味じゃねーっす、それ。業務の延長線上の何かだ、間違いなく」 「悪うございましたね。一介の地蔵菩薩だった頃から、ろくな享楽など持ち合わせていませんでしたとも。あの頃はただ立ってるのが仕事みたいなものでしたし」  小町は渋い顔で酎ハイに沈んだ梅の実をつつき回す。 「なかなか重症だなあ。そうだ、映画鑑賞とかどうですか。見るのが仕事だったってんなら、見る遊びを選ぶってのも手かもしれない」 「映画ですか。ああいうの見るとだいたい登場人物の粗探しになるんですよね」 「だから、そーゆーのは禁止なんじゃないんですか。そうですねぇ、映姫様の場合ははっきりした悪党のいない作品、例えばドキュメンタリーとかコメディとかがいいんじゃないですか。そうと決まりゃ話は早い。親父、お愛想頼むわ」  へい、と返事する店主と小町とを映姫は交互に見た。 「え、今から? オールナイトとか勘弁ですよ」 「何も映画館に行くとは言ってないでしょうに。レンタルですよ。まさか家にDVDも置いてないとかじゃないでしょうね?」 「ば、馬鹿にしないでくださいよ。それくらいは」 「じゃ、早いとこいきましょうや。多少ならお勧めの奴を紹介できますし、背中押すくらいはお手伝いできますよ――」  と、笑顔で懐に手突っ込んだまま硬直して映姫を見ることしばし。  その様子を数秒眺めたところで、映姫は彼女の意図を容易に察知した。 「勘定は私がもちます。相談料です」 「さっすが映姫様、太っ腹だぁ」 「クッソわっかりやすいシグナル送っといて何言ってるのかしらね、この子は」  §  数時間後。映姫は小町に紹介してもらった映画のDVD数本、それから缶ビールの入ったビニール袋を抱えて是非曲直庁職員寮に帰還した。 (結局小町に頼りきりになってしまったわ。できない部下も使いようってところかしら)  ここまで休暇について真剣に考えさせられる羽目になるとは、つい数時間前まで思いもよらなかった。認めたくはないが、小町がいなかったら今頃思考停止に陥っていたに違いない。 (こういうことに関しては、白黒はっきりつけるのが難しいのかな)  一抹の不安を感じながら、異様に片付いたリビングに入る。買い物袋をフローリングの片隅に追いやり、最奥にある小型液晶テレビとDVDデッキの電源を入れる。 (小町に紹介してもらった映画を全部見ても六時間に足らず。それでもなお謹慎期間は六日を余す――その後は、どうする? 新しい映画を借りに行く? それとも――)  デッキの脇にビニールの保護をかけたまま安置していた取扱説明書のページをめくりながら、なお映姫は馬鹿馬鹿しいほど冷徹な思考を巡らせ続けていた。  こういう性分だ。考えることを放棄するのは閻魔を放棄するにも等しい。 (まあ、今から悩んでいても仕方がないわ。まずは小町のアドバイス通りに行動してみよう。意外といい気分転換になるかもしれないし)  プレーヤーに円盤を押し込みながら、映姫は前向きな思考を持つことを試みた。  §  結論から言えば、三時間ほどで限界がきた。  傍には空になった缶ビール。敗残兵じみて侘しく整列する。  薄暗い部屋の光源は唯一、明滅する液晶テレビの映像のみ。  その明かりに照らされた映姫は、シャツをルーズに着崩して体育座りしたまま据わり切った目で呪文みたいな譫言を呟いていた。 「人物考証が大雑把過ぎるわ――世の男女がこんな安直な思考パターンに基づいて行動するわけないでしょうが――こんなものを見て大衆はいちいち感動するというの――嘆かわしい――」  ごろり。両腕を広げてフローリングに寝転がる。 「やっぱ駄目――見るもの全てにうっかり白黒はっきりつけてしまう――こんなこと一週間も続けるなんてとても無理――無理ゲー――」  淀んだ目に映るのは白い天井。わずかなシミすら黒く見えてしまいそうで、すぐ顔を背けた。 「だいたい小町のチョイスがいけないのよ――もっとリアリティに拘るものを選ぶべきだったわ――あいつの難解極まる小説だったら、もっとこう――」  押し黙る。  しばらく、硬直。  ややあって、両頬の温度がみるみる上昇していく自分自身を感じた。 「だあっ!」  自分への喝を一発。法廷を彷彿とさせる機敏な所作でリモコンを振り上げ停止ボタンを押す。  真っ暗になったリビングの中心で、大汗を流しながら肩を上下に。 「なんでまた――あの性悪妖怪のことなんか思い出すのよ」  視界がきかないので、片付けは早々に諦めた。背後に置かれたベッドによじ登る。 (こんな生活、あと六日も続けられるわけがないじゃないの――でも、小町の提案を棄却したところで他に何かやることなんて――)  アルコールが回り、暗闇の中でもなお冴えた目で思案に耽る。 (部屋に籠る? 心乱す要因となる何物をも見ずに? 聞かずに? ただロボットのように、日常の家事を淡々とこなして残りの謹慎期間を消化する? 冗談! そんな生活続けてたら、確実に心が壊れる! それでは外――外か――)  今さらながら閻魔王の言葉を思い出す。蟄居している必要はない。なぜなら彼らも浄玻璃で映姫の行動を、罪悪を常に確認できるからだ。 (そうだ外に出よう――雑念を捨て、自然物を眺めて癒されよう、そうしよう――)  目を閉じる。  悩みが消えれば、切り変わりも早い。  十分。  二十分。  目を、開く。 (外に出て――いったいどこに?)  §  小町は眼前に立つ渡河の客人の存在理由を見出すのに数十秒を要する羽目になった。  その上で、一言告げる。 「視察は拙いんじゃないすか、今は」 「違います」  きっぱりと言い放つ映姫の目は、少々血走っていた。明らかに寝ていない。  そして今の彼女は見慣れた是非曲直庁の制式閻魔服ではない。モノトーンを基調とした地味なパーカーとインナーで固めており、彼女をよく知らない者が見たらとても閻魔と気づくまい。 「私人として、此岸まで渡してもらいたいのですが。当然、所定の渡し賃は払います」 「有り金全額が相場なんすけどねえ。まあ、縁故割引ってことでサービスしときますよ。でもまたどうして普段見回ってる幻想郷に?」 「手近な場所にある自然が残った場所を探したら、心当たりがあそこしかなかったんですよ」  背後に広がるのは、絶えず立ち込める川霧で対岸の見えない三途の川。  小町は映姫を手招きして、桟橋に舫いた小船に導いた。 「まあ映姫様の判断ですから、間違ってるとは思いませんが。悔悟の棒も浄玻璃の鏡もなしで大丈夫なんですか。あすこは妖怪の巣窟ですよ」 「護身程度なら手ぶらでもなんとかなります。危険な場所に出向くつもりもありませんしね」 「まあ、そこまで言うなら止めやしませんがね」  小町は映姫を船に乗せると沖へ漕ぎ出し――小川を渡るかのような早さで対岸に辿り着いた。 「さすがは映姫様、三途も空気読みますやな――」 「着いてこなくて結構ですよ」  下船する映姫に続こうとした小町を、彼女は手で制する。 「いや、でも、危なくないすか」 「謹慎を言い渡されたのは私だけ。あなたはそうではない」  映姫は賽の河原の一角を指し示した――桟橋から続き、河原果てまで延々と続く亡者の列を。 「――あー」 「謹慎が明けるまでの間に、渡河待ちの者の行列がどれだけ減っていることかしらね」  脂汗を流しながら、映姫の言葉に宿る言外の意味を察する。 「わかりました――何とかしときます」 「何をどうするかは、あなたの裁量次第です。私には、あなたの仕事を指示する権限がない」  映姫は亡者の列とは逆の方向に歩き、その背は徐々に小さくなっていった。  §  三途へと向かう中有の道は、道の両脇に屋台が出て縁日の様相である。時折死者の魂がここで足を止めて、賑わいへと誘引されていく。脇を通る映姫の歩調は、知らず早まっていた。 (ここはお祭り騒ぎだけれど、早く通り抜けてしまった方が良さそうね)  屋台を切り盛りしているのは一度地獄に落ちて懲らしめを受けた罪人たちだ。地獄の刑期を終えた彼らが転生後の衆生を真っ当に生きられるかどうか試している――というのを建て前に、万年火の車である是非曲直庁の財源を確保するための場所。  そしてその性質上、屋台を経営しているのは前世で悪人だった者が多い。 「ひいいっ!」  目の前の屋台から、霊が一人転がり出てくる。懐には、三途の渡し賃が入った財布。  非常に嫌な予感がする。 「手前ぇ、払えねえとはどういうことだぁ!? ウチの品物に落ち度があるってえのか!」  続いて、大柄な霊が屋台の奥から現れた。  ありふれた構図に、映姫は頭痛を覚える。 「だ、だって、甘酒一杯で十銭なんてぼったくりもいいとこじゃないか! そんなに払わされたら、渡し賃がなくなってしまうよ!」 「そんなこと知るか! 値札はきちんと出してんだ、見てない奴が悪い」  親指で指し示す屋台の値札に「一杯10銭」の字。  わざわざローマ数字を使って横書きにするとは、実に分かりやすい。目眩も感じた。 「ふざけんな、マルを一つずっと隠してやがったじゃないか!」 「なんだ難癖つけようってのか、ああ!?」  ベタベタな手口。明らかに黒である。一度地獄に落ちればもう浄玻璃の裁きなどないので、こういう詐欺商売で多くの金銭を稼ぎ獄吏の覚えをよくしようと考える罪人は少なからずいる。対応する獄吏の側も激務に追われているので、地獄では賄賂が横行しているのだ。  一瞬、判断を迷った。  閻魔としてこの場に居合わせれば容赦なくこの懲らしめ足りない屋台主をどつき倒しているところだが、今は謹慎中だ。この場での出来事は後で庁に報告すれば済むだろう。  だが、しかし。 「死んでるくせに往生際の悪い野郎だ。さあ、とっとと出すもの出しやがれ!」 「畜生理不尽な。誰か、誰か助けてくれ!」  霊の叫びも虚しく、他の者たちは巻き込まれたくない一心から傍観を決め込みその場を通り過ぎていく。このままでは渡し賃を根こそぎ奪われるのも時間の問題だろう。  見捨てるのは、映姫にとって道義に悖る行為だった。 「まあ、待ちなさい」  霊に掴みかかろうとしていた屋台主の前に割って入る。 「何があったかはわかりませんが、店主が客に乱暴を働くとは穏やかではありません。ここは通りすがった私に免じて、引いてはもらえないものでしょうか」 「なんだ姉ちゃん、じゃああんたが代金を立て替えてくれるってのかよ」  屋台主は、私服の映姫が閻魔だと全く気がついていない。  こいつは後日念入りに裁き倒す、と映姫は誓う。 「幾らになりますか」 「甘酒二杯、二十銭だよ」  映姫は客の霊の方に向き直った。 「では一割の二銭をあなたが払いなさい。残りの十八銭は私が払います」 「あ、ありがとうございます」 「ご遺族の方が託してくれた渡し賃です。これ以上の無駄遣いはいけませんよ」  頭を下げる客をほとんど無視するように屋台主へ残りの金額を支払い、足早に立ち去る。  映姫にとっては、これが最も妥当な解法だった。 (手元に浄玻璃があればより公平に裁けたけれど――いや、考えるまい)  様子を観察した限りでは、悪いのは明らかに屋台主である。しかし映姫は客とのやり取りを全て目撃したわけではなく、また客の方にも値札を見落としていたなどの過失があった可能性がある。何より、三途の渡し賃をこんな場所で使うとは何事か。 (せめてあの二人が何を考えているのかわかればね――この場に居合わせたのが私ではなく、そう、あいつならば――っと!) 「何者だい、あの生者」「こんな場所に生きたまま来るんなら、余程の物好きだが」  道行く霊たちの囁きが聞こえたせいで思考を中断せざるを得なくなる。  注目を浴びすぎた。別にお忍びで来ているわけではないので閻魔だとばれても問題はないが、騒ぎになるのは好ましくないように思える。より早いピッチで、中有の道を抜ける。  しかし映姫が予測していた以上に、彼女を取り巻く事態は劇的であった。そのことを彼女は、上空を巻いた強風によって思い知らされることになる。 「そういやこの辺りは、妖怪の山にも近かったんでしたっけねえ」 「さすが閻魔様はご明察でいらっしゃる」  目の前に降り立ったのは烏帽子の鴉天狗――今最も顔を合わせたくない、幻想郷のマスゴミ。 「そちら様こそ、よく私だと気がつきましたね」 「中有の道をうろつく生きた者を、山に立ち入らせないように見守る義務が我々にはあります。そして、うちの哨戒天狗たちは皆目がいいのですよ」 「そりゃまた、勤労精神に満ち溢れて結構なことです」  鴉天狗・射命丸文を半ば無視して歩き出す。当然のように彼女は追随してきた。 「私服でいらっしゃった理由を伺っても?」 「答える義理はありませんね」 「だとするなら、私の推測で記事を書くことになりますが」 「どっちにしても記事にはするのね――」  冷徹な眼差しを、文の薄ら笑いを浮かべた顔に向ける。 「いつぞやの説法を、あなたはまだ理解していないようです」 「当然、理解してますとも。あれ以来、記事作りには強い責任を感じながら取り組んでいます」 「私にはとてもそうには見えないけれどねえ。あなたが記事を書くたび多かれ少なかれ新たな罪が起こり、蓄積します。それらはいつか必ずやあなたの頭上に降りかかってきますよ?」 「当然、覚悟の上です。ここの住人は皆そうやって生を謳歌しています。自らの罪を理解している者も、そうでない者も」  文の言葉に含みを感じた。不意に、多数の気配が山道を囲んでいることを映姫は察知する。  山道を行く者目当ての有象無象に違いない。歩いているのが閻魔だと気がつくだけの知性を持ち合わせていないか、あるいは霊たちのようにまだ気がついていないのか。  身を守れないことはないが、悔悟の棒もない身で相手をするには数が多く少々骨が折れる。  それを察したかのような、文の声。 「安全な麓に辿り着くまで、私が同伴した方がよろしいかと思いますが」 「そのようですね。残念ながら」 「道すがら、今回の趣旨を聞かせていただいてもよろしいです?」  映姫は深く息を吐き出し、文を邪険に扱う道を早々に諦めることを決めた。 「あまり面白い話じゃありませんがね――」  § 「――それで、ブン屋にいつまでも護衛されてるのも面白くない、それなら妖怪の近寄らないような場所がいいってことでここに来たわけね?」 「そういうことです」  博麗霊夢から受け取った湯呑み茶碗を傾ける。熱い緑茶は少々強い苦味があった。 「――別に今日は説教しに来たわけではないので、ご安心を」 「安心って言ってもねえ」  神社の拝殿に隣接する母屋の軒先で、霊夢はやや引け腰になりながら茶を啜っている。 「普段から歩く説教製造マシーンみたいに振る舞ってる奴が、今日に限って『謹慎だから説教しない』だなんて、説得力の欠片もないわ」 「私たちの裁きは憶測を交えてはならないことが大原則です。浄玻璃がなければ、正確な罪の情報がなければ正しい判断を下せません」 「閻魔様は、こういう時ですら融通がききませんわ。謹慎期間中くらい、白黒はっきりつけることを止めてしまえばよろしいのに」  映姫と霊夢がどんよりした眼差しを一斉に母屋の中へ向ける。映姫の返答者は霊夢ではなく、居間でかしこまって茶を飲んでいる、白いドレスの貴婦人然とした女だ。 「――何よりあいつが堂々と私の前に姿を現しているのが、何よりの証拠です」 「――もうなんと言うか、反論不可能なレベルで納得できたわ」 「二人して失礼ねえ。人をこそ泥か何かみたいに」  八雲紫はしゃあしゃあと言い放ち、今度は卓袱台の上の煎餅に手をつける。 「現在進行形で人の家に上がり込んだ挙句お茶まで飲んでる奴が、何を言っているのかしら」 「でも、大半はもらい物ですわ」 「それで、わざわざ隙間から出てきた用件は何です。冷やかしですか?」  警戒過多な映姫の問いにも紫は動じない。 「まあ、そうつんけんなさらないで。冷やかしもありますけれども――せっかく素敵な幻想の世界に逃避しても心休まらない時間を過ごされている閻魔様に、少しご助言をと思いまして」 「助言?」  反芻した。浄玻璃の鏡なしではおよそ意図の読めない相手だ。  紫は涼しい顔で扇を取り出し、一振りする。と、映姫の頭上の空間にジッパーみたいな隙間が開いて、折った新聞紙が落ちてきた。  見出しを見ずとも、中身は推察できる。 「あの新聞記者ったら、まだ別れてから一刻も経ってないというのに――」  開いてみれば案の定、文の発行する「文々。新聞」その一枚ものの号外紙であった。中有の道を歩く映姫の写真と共に「閻魔の過剰労働にメス 是非曲直庁の闇を追う」などと、答えた覚えもない扇情的な見出し文字が躍っている。 「わかっておいでとは思われますが、天狗の記事がいい加減なのは皆先刻承知のこと。本当に重要なのは、あなたが目下謹慎中であるということ、その事実が爆発的な速度で幻想郷に知れ渡っているということですわ。ネット並みね」  網の何が速いってのよ、と首を傾げている霊夢を他所に、映姫は天狗の足の速さにただただ呆れるばかりだった。記事書いて構成してガリ版作って印刷してさらには配るまで、どれだけ速いんだよどこのギャグ漫画だよという話である。  しかし、まだ冷静さを失う時間ではない。 「所詮は、一時的な謹慎です。一週間後には閻魔に戻る相手を邪険に扱う者など」 「果たして、本当にそうと言い切れまして?」  引きつった顔で、紫を見る。 「ご存知でしょうに。この界隈は、悪びれない連中ばかり。自らが背負った罪を認識し、その上で楽しく生きているのですわ。そんな奴らを常日頃からド正論と因果応報弾幕でねじ伏せている閻魔様が、今に限って説教もしない弾幕もろくに撃てないと知ったら、果たしてどうなるかしら。しかも、彼女たちに与えられた期間は一週間しかないのです」 「そんな大人気ない連中が、そう何人もいるとは――」  空気が、ずしり、と音を立てそうなほど重くなったのはまさにその瞬間だった。  映姫が真顔になって、霊夢と顔を見合わせる。  ――ところで、現在映姫がいる場所は博麗神社。  幻想郷最強にして最悪の異変請負人、博麗の巫女が暮らす神社である。強固な結界に守られ、霊夢自身も有数の妖怪退治屋であるこの場所を訪れる妖怪には、概して二種類ほど存在する。  第一は、神社の重要性堅牢性を知らない大うつけか新参者。  第二は、博麗の巫女に匹敵する実力を持つ歴戦の古強者。  そしてたった今境内に現れた気配はというと、間違いなくすげぇ大人気のない後者であった。 「え・い・き・ちゃーん、あーそーびーまーしょー」  滅茶苦茶に弾んだ声が表から聞こえてきた瞬間、映姫の対応はすでに決定していた。無言で湯呑みを置き、縁側から立ち上がって霊夢を見る。 「裏手よりお暇します。お邪魔しました」 「うん。それが一番賢明な選択だと思うわ」  足早に立ち去る映姫と入れ替わるように、白い日傘をさした女が鼠を追い詰める猫よろしくゆっくりとした足取りで縁側に顔を出した。 「あら。映姫ちゃんはどこに行ったのかしら?」 「逃げましたわ。極めて合理的な判断で」  風見幽香は紫の言葉を聞くと、日傘を閉じながら唇を尖らせた。 「なんだつまらない。閻魔をいじめ倒せるなんて、千年に一度あるかどうかもわからないのに」  にこやかな顔のまま殺人的な速度で日傘を振り回す幽香の姿を、霊夢が細い目で眺めた。 「あんたってば実にわかりやすいわ」 「単純明快も極めると美しく咲くものよ。それで、ただの映姫ちゃんはどこに逃げたのかしら」 「そうねえ」  映姫が去った裏手を、霊夢が見る。 「あんたみたいな妖怪がこぞって仕返しに来ると知ったら、逃げる先は一つでしょうね」  § 「それで、結局地上の連中が恐れて降りて来んここまでやって来たと。まあ、飲め」  大鍋のごとき杯に並々と注がれる透明な液体は、まさに味の暴力、粋の大洪水。映姫は泥濘と化した目でその大海を見下ろした。  なお周囲には、我を忘れて浮かれ騒ぐ角つきの巨漢が大量にいる。逃げ場はない。 「鬼の酒は強すぎるから勘弁してもらいたいんですがね」 「十分勘弁してるさ。日頃の働きに免じて、我らが宴に付き合えば赦免してやろうってな」  星熊勇儀は震える手で杯を支える映姫を眺め、自らもまた手にした杯を煽る。  旧地獄、地底妖怪の都の中。無数にある酒屋の一つに、映姫はいた。 「どこへ行っても絡んでくる連中ばかり。幻想郷には尊敬の心がないのかしら」 「我らが敬うのは喧嘩の強い者だけだな。今のあんたと殴り合っても面白くない――ここまで降りてくるのも、一苦労だったんじゃないのかい?」 「そりゃもう土蜘蛛やら橋姫やらウザ絡みされましたわ――はあ、成り行きでこんなとこまで来ちゃったけれど、どうやって帰ればいいかしら」  どうにか受け持ちを減らすべく杯を啜る。とても辛い。 「現地獄に通じるいつもの通用門を使えば済む話じゃあないのかい」 「使用権限があるのは是非曲直庁の職員だけです。そして私は謹慎中」 「なら、あれだ。地霊殿にでも泊めてもらえばよかろう」  むせた。  すんでのところで杯をひっくり返すのは阻止。畳に置いたあと一頻り咳き込んだ。  勇儀が崩し胡座を組み替えながらけたけた笑う。 「おいおい、そんなにびっくりすることでもあるまいよ」 「な、何が楽しくてあの性悪妖怪のところなんかに」  一角の鬼は映姫を見たまま目を丸くする。 「そんなに嫌かね? あんたはよくあそこに通ってるじゃないか。我らはあんな辛気臭い場所、とても近づく気にはならんというのに」 「それはあそこの家主が札付きの罪人で、しかも怨霊の管理を時折怠るからです! 業務上の必要でもなければ、誰がサトリ妖怪のところになんか」 「そうかい? 界隈では評判だよ。閻魔の説教はとにかく長いが、地霊殿に出向く時間はその中でも格段長いと。閻魔が地霊殿に向かったことを知れば、どいつでも胸を撫で下ろすもんさ」 「それは――罪の重さに応じて説教も長くなるってだけで――」  顔を歪め、口ごもった。  あくまでも地霊殿を訪れるのは、閻魔としての責務の範疇。  そのはずなのだ。なのにあのサトリ妖怪ときたら最近ではすっかり開き直って悪業を改めるつもりがなく、説教を受け流すことに終始している。  あんな人の話を聞かない、というか聞く必要のない。  ともすればこちらの考えを一方的に朗読し、喋らせるつもりすらない。  ――でも、是非曲直庁庁舎食堂の一杯八厘のコーヒーなどに比べたら別格の清々しさを持つローズティーを毎度のように振舞ってきて。  手製のクッキーは訪問日に合わせて準備していたもので、焼き立てで。  ペットたちに対しては慈母のような微笑みを向ける、あいつのことなど。 「まあ、お前さんがあの館で何をしようが我らの知ったことではないが。もし旧都に滞在するのなら、その間は私の酌に付き合ってもらうことになるよ。無論迎えは寄越す」  映姫は正直卒倒しそうになった。  §  そして。 (結局来てしまった――)  目の前にそびえる館を眺め、しばし立ち尽くす。  石造りの洋館。しかし平屋建築に切妻の屋根を思わせる造り、静謐とした佇まいは、どことなく神社を思わせる。  旧都の真ん中に建つにも関わらず、地霊殿の周囲は人っ子一人通る気配がない。酒と喧嘩が大好きな住人たちも、サトリ妖怪であるこの館の主人には誰も近づきたがらないのだ。  鬼の酒を大量にかっ食らわされて酩酊に近い状態にあってなお、映姫は合理的にこの場所までやってきてしまった理由の分析を試みる。 (ここなら旧都の喧騒から無縁でいられるから、立ち寄っただけ。頭を冷やしたらとっとと離れて――でも是非曲直庁の通用門(ショートカット)は使えない――どうする――)  勇儀の何気ない提案が頭をちらつく。が、映姫は首を振り回し、アルコールにより停滞した脳の血流もろともそれを振り払った。  主はあの古明地さとりである。心の弱さを突くのを大の得意とする妖怪である。  そんな妖怪に会ったら、今日の出来事を――謹慎を食らった上に安易に幻想郷へ踏み込み、天狗に根掘り葉掘り聞かれ、仕返しに訪れた凶悪妖怪から逃げ回り、鬼の付き合い酒まで飲まされた事実を容易く読み取ってしまうだろう。そして後日にわたりそれらの恥ずかしい記憶をネチネチ突いてくるに違いないのだ。 (やはり、こんな場所にいては駄目だ。ペナルティを受けるのは覚悟の上で通用門を――) 「あれ、閻魔様じゃないっすか? もしかして」  背後から聞こえた声のタイミングは、絶妙だった。若干芝居がかった感じのする声は、映姫にも聞き覚えがある相手である。  軋みを立てそうな重苦しさをもて振り向いた先には案の定、猫車を両手で支えた火焔猫燐が立っていた。地霊殿で飼われるペットにして、死体を持ち去る火車でもある。 「どうも。仕事帰りですか? また性懲りもなく――」 「おっと、勘違いしてもらっちゃ困りますよ? 三途を渡り損ねた大馬鹿者だけを、きちんといただいておりますんでね。疑うんなら、ご自分で検分してみりゃよろしい」  と、猫耳を生やした半獣人が幌を被った猫車を誇って見せる。中身は言わずもがな「仕事」の成果物だ。不用心な葬儀前の遺体を掠め取ってきたか、あるいは彼女の言う通り――  幌の隙間から覗く屍肉を見て、嫌な予感がしたのはその時だ。 「まさか――」  軽く仏を拝んでから、幌を退けて死に顔を見る。  そして、天井を仰いだ。  猫車に乗せられていたのは、紛れもなく先ほど中有の道で助けた霊の遺体だった。  全くの推測になるが――彼は元々多くの渡し賃を持てるほど、人徳がなかったのだ。大事な金銭の無駄遣いを重ね、露天商の詐欺にまでひっかかるろくでなし、と、そんなところだろう。 「閻魔自ら慈悲を施してやった奴が焦熱地獄の燃料に変わるのは、どんな気分です?」  背後から聞こえる燐の、粘っこい声。  それだけで全てを理解すると、遺体に幌をかぶせ直した。 (この性悪猫め。飼い主が飼い主ならペットもペットだわ) 「――最低ですわ。仕事から離れると、ろくなことがない」 「閻魔様の落ち度をさとり様が知ったら、どう思われるか見ものですね? あたいの言う言わないに関わらず、あの方は全部読み取っちまいますんで」  この燐の言葉が、妙に癇に障った。  尋常ならざる酒に酔って、感情が短絡的になっている。映姫の冷徹な部分が、そう判断した。 「冷やかしにしても、言葉は選びなさい。それとも、私が脅迫に屈するとでも?」 「いやいやそんな大それたこと。ただ、あたいとしちゃさとり様の享楽が至上の喜びでして」  妖怪の倫理観と真面目に口喧嘩する方が間違っている。  映姫は早々に結論づけると、踵を返した。 「下らない」 「あれ、寄ってかないんです? そのためにここまで来たんじゃ」 「あいにく、今の私は閻魔ではありません。たまたま館の前に立ち寄っただけなので、家主と会話する理由も皆無ですよ。お邪魔しました」  歩調を早める。早めようとした。  実際のところ、酒が全身に行き渡り足取りはかなりおぼつかない。通用門にたどり着くまでどれほどの時間がかかり、どれだけの妖怪に因縁つけられるかは不明だ。しかしこの胸糞悪い場所にとどまるよりか、それらのトラブルの方が幾分ましだと思えてきた。  背後で何か、重たいものが落ちるような音がする。  次の瞬間。 「なっ」  膝の裏に硬いものが高速で叩きつけられると、映姫はあっという間になけなしの平衡感覚を奪われた。なす術もなく後頭部から地面に叩きつけられる――と思われた瞬間、彼女の景色は突如として後方へとスライドを開始する。 「ちょっ、えっ、ええ?」 「あー口開かん方がよろしい。舌噛みますよー?」  燐の声。同時に映姫を乗せた猫車が、鋭いコーナリングを見せる。視界が横にずれることで視界に入ってきたものに映姫が目を剥いた。  首が九十度ほど横にひん曲がった状態で、中途半端なでんぐり返りのポーズをとって固まる人間の身体が一つ。 「あ、あ、あなた御仏となった者に何てことを!」 「心配せんでも、あれは手下どもが運んどきますよ。それに焦熱地獄の炎で焼かれりゃあ、どんな仏も立派な怨霊になりますよって」 「そういう問題じゃありません。ていうか降ろしなさい!」 「あーあー、聞こえなーい聞こえなーい」  猫車が地霊殿の門を通過する。  一方映姫は荷台に胴体がすっぽり嵌り、両手両足が遊んでしまい猫車から抜け出せない。 「ちょっと、どこへ連れてくつもりですか!?」 「んー、珍しい恰好のお姉さんを見つけたんで、さとり様に見せびらかそうかと」  左右から青白い化粧を施したゾンビフェアリーが映姫たちに先行して、エントランスに続く館正面の大扉を押し開ける。 「私は会う気はないと言ってるんです。何考えてんですか、いったい」 「強いて挙げれば、閻魔様の態度が気に食わなかったってところですかねえ。つれないお人を見ると、あたいはついついちょっかいを出したくなっちまうんですわ」 「そ、そんな身勝手な――!」  開かれた扉を通過。進路上に寝そべっていた猫たちが猫車の突撃に驚いて左右に散っていく。 (このままでは拙い。なんとか逃げ出さないと本当に――)  姿勢を変えて、手がかりを作る。重心を移動させて荷台から映姫の背中が離れたその瞬間。 「騒がしいわ。何をしているの?」「あ、さとり様」「うわあああああ!」  ほとんど同時に、いろいろなことが起こった。  ホールの奥に、さとりの姿が見える。  燐が猫車に急ブレーキをかける。  そして映姫は、不安定な姿勢から慣性に逆らうことができず、猫車から投げ出される。 「あああああああああああ」  悲鳴を上げながら三連続前方展開を決めたのち、映姫の体はようやく静止した。 「――もう、散々だわ。なんなのかしら」  首を振って頭を上げる、と。  目の前に三つ目の妖怪がいた。  尻餅の姿勢でさとりを見上げて固まる映姫。  無表情のままそれを見下ろすさとり。  絵画のような沈黙が、数秒続いた。  そして。 「ぷ」 「笑った! 笑いやがった! この恰好およびここまで来るに至る道程を全て見て読んだ上で、この女その感想をたった一文字に取りまとめやがった!」 「まあまあ」  身を乗り出して怒り狂う映姫をなだめると、広間を眺めて手を叩く。 「誰かありますか、お客様ですよ。客間を一つ整えてくださいな。あと浴衣を何種か、色味を違えたものを準備しておいて。あと、お燐」 「はいな」  空になった猫車を引いてやってきた燐を一瞥し。 「猫車を引いて館内を走っては駄目でしょう? お客様を粗末に扱うし。罰として、三日分の給与を二割カットします。よいですね?」 「ちぇー」 「早く外に放置した燃料を回収しておいでなさい」  膨れっ面を作ってUターンする燐を尻目に、映姫はさとりを睨んだ。 「私は別に宿泊を望んでいません。何を勝手に決めてくれてんですかね」 「でも、他に行き場がなかったのは事実では?」  さとりは口ごもる映姫に笑いかけた。 「四の五の言わず、好意には縋っておいでなさい。あの子も決してあなたに意地悪をしたくてやったわけではないのですから、汲んであげてくださいな」 「――はあ」 「少々疲れておいででしょう? まずはお風呂に入って、汗をお流しあそばせ。服は洗濯しておきますので、好きな色の浴衣にお着替えくださいね――誰か、お客様を案内して頂戴」  スリッパをぱたぱた鳴らしてさとりがその場を辞する。  映姫は彼女の背中を目で追いかけた。肩を若干怒らせた後ろ姿は、かなり浮かれて見える。  そしてさとりの様子に、映姫は果てしない違和感を覚えるのだった。 (――え?)  §  皿を覆ったドームカバーが取り外されると、溶けたバターの香りが映姫の目の前いっぱいに広がって、奔走に疲れ果てた彼女の食欲を刺激した。  なお、今の彼女はさとりから貸し与えられた白黒矢紋柄の浴衣を着けている。 「地底野菜のリゾットでございます。臓腑が鬼の酒でかなりまいっておいでのようですから、多少は消化に良いものをと思い余分に煮立てて芯を抜いてあります」 「――どうも」  皿の上に盛られた白と緑と赤の彩りを観察する。水気の多い状態で出された米の小山脈は、充分に旨味を抽出した野菜スープで煮たと見え、味覚を経ずとも「白」と判断せざるを得ない。  というか、地霊殿で出される飲み物、食事が外れだった試しがない。 「別に毒など入っておりませんよ?」 「ええ、そうでしょうね、そうでしょうよ、多分」 「それから、私どもは夕食を済ませてしまいましたので、邪魔など入る心配はありませんよ。何より館で一番のいたずら者は、ことに閻魔様へ近寄りたがらないものですから」  料理とは別の意味で、映姫の表情は曇った。さとりの言葉には覚えがある。 「妹君は相変わらずですね。先般の宗教戦争もどきにおける一件を、彼女から聞きましたか」 「聞くも何も、時折異変の元凶が押しかけて来ましたから。希望の面とかいうものを取り返す必要もなくなったといいますし、最近はめっきり少なくなりましたが」 「あの子は罪の意識が少なすぎます。いい加減自意識を見つめなければなりません」 「まあまあ、愚痴なら考えるだけでも結構ですわ。冷めないうちにお食べくださいな」  はぐらかされた気がするが、観念してフォークを手に取ることにした。  米粒を入念に掬い取り、口に含む。下の上でそれらがとろけて、ブイヨンとオリーブオイルの風味が口いっぱいに広がった。やはり。 「口に合いましたようで、何よりですわ。お続けください」  サトリ妖怪のコミュニケーションは特殊だ。言葉がなくとも会話が成り立つためか、相手が喋れない状況を作ることを特に好む。食事中などまさにうってつけの場である。 (さて、私はどう料理されてしまうのですかね)  リゾットを口に運びながら、さとりの次の言葉を警戒した。先ほどの「ぷ」の時点で映姫の地霊殿に至るまでの経緯はもはや明らかであろう。 「それで、本日は泊まっていくとして。謹慎期間中はいかがなさいますか。地上に戻るのも、面倒でしょう? よろしかったら、謹慎が明けるまでこちらに滞在なさっては」 (それではそちらに迷惑がかかります。今はさしたる持ち合わせもありませんし) 「よいのですよ。こんな時くらいしかトイレタリーを消費する機会がないのですから。小説の批評代、ということでご破算にしておきましょう」 (そんなの、割に合いません) 「では、臨時のアルバイトなどやってみませんか? ペットたちの世話を手伝うとか」 (ペットの世話。動物園が開けるレベルのここのペットをですか) 「そう、何人飼育係がいても足りないくらい。アニマルセラピーはいいものですよ? 彼らは本能に忠実に生きていますから、余計な思考を抱かない――白黒つける必要もないくらいに」 (はっ――?)  無意識にペースアップしていたフォークの動きが、止まる。 「あら、今日の私の何がおかしいと仰るのかしら?」 「だ、だってそうじゃないですか。こういう時真っ先に弱ってるのを突いてきそうなあなたが、私には及びもつかなかった提案をしてくるだなんて。キャラに合いませんよ」 「あらあら。そこそこ付き合いは長いと思ってましたが、意外と人を見る目がありませんわ。浄玻璃がないとここまでヘタレるなんて」 「悪うございましたね!」  サトリ妖怪はテーブルに両肘を突いて、溜め息を吐く。 「簡単な理屈ですわ。その必要がないからです。いつも仰っているじゃないですか、因果応報」 「どんな因果が私に巡ると?」 「そりゃ普段の説教がですよ。誰しも苛烈な責め苦には反攻したくなるものです。今のあなたには、それがない。楯突く必要も感じない」  リゾット皿の上で、フォークがカタンと音を立てた。思わずそれを見下ろす。  慌ただしくフォークを持ち上げる映姫の耳に、さとりのさらなる声が届いた。 「私の説教に誤りなどない、ですか。そうです、浄玻璃を持ったあなたの裁判は確かに正しい。問題は――正しいだけだってことです」  絶句したまま、さとりを見る。  今の彼女には、表情がなかった。 「あなたの裁きを受ける者は、あなたの慈悲を知らない。罪人を地獄に落とさねばならない、あなたの苦悩を知らない。そして――正しいだけでは人の心は動かせない。幻想郷の懲りない面々が相変わらず懲りないのは、それがせめてものあなたに対する反攻だからなのです」  映姫は、反論を迷った。 (正論だけでは人は動かない。それは確かに正しいけれど) (同時に、迷わねばならない。何をもって善行となすかは、誰かによって押し付けられるものであってはならない。そして私も、今も悩み続け――) 「食事が冷めてしまいわすわ、映姫さん」  我に返った。再び正面を見る。  映姫を眺めるさとりの顔は、微かに笑っていた。 「そういうの、せめて謹慎中はなしにしませんこと。やはりあなたには、セラピストが必要に思えますわ。その悩み、断ち切って差し上げましょう」 「断ち切る?」 「ええ、悩む暇もない程度の多忙によって。今夜は可能な限り疲れをとっておくことをお勧めします。宿代に匹敵する働きを期待しておりますよ?」 「――はあ」  生返事を返す以外にない。対するさとりは、椅子から立ち上がりかけたところで、一言。 「だからそういうキャラじゃねーだろアンタ、とか考えないように!」  § 「いいんすか、あれ。あの程度で許しちゃって」  食堂を辞したさとりに燐が声をかける。 「今まいってるうちに叩きのめしといた方がよくないか、ですって? 物騒ですこと。そんな刹那的な発想は、地上の連中にでも任せておけばよいのです」 「でも毎度のようにやりこめられて、悔しい思いをなすっているんじゃないですか?」  さとりは大げさに肩をすくめる。 「形骸化してはいますが、それでも私が是非曲直庁の嘱託であることには変わりがないのです。本気でやっつけてしまったら、私もペットもどんなお咎めを受けることになるやら。それに、説教の見返りなら十分にいただいているのですよ」 「へえ、それはどんな?」  人差し指を静かに立てて、唇に当てた。 「内緒です」 「えー? それは狡い、教えてくれたっていいじゃないですか。あたいらはさとり様と違って、心を読むことなんかできないんですから」 「お生憎様、サトリ妖怪とはそういうとても狡い生き物なのですよ。長年ペットをやってきて、気がつかなかったのかしら?」  むくれる燐を捨て置いて、さとりは内心ほくそ笑む。 (そう。こんな素敵な玩具、誰かに教えられるものですか) (四季映姫。どんな幻想よりも自らの役割に忠実で、それゆえに誰よりも苦悩する存在) (死者を裁き、地獄に落とし――その重圧に誰よりも苦しんでいるのは他ならぬあの方自身) (その深い深ぁい悩みを手中にできるのは――私一人の特権です)  背後、食堂の方角を見る。第三の眼を通して伝わる映姫の心は、未だモノローグの渦中だ。 (だから、どうか――存分にお頼りくださいね?)  §  大扉を断続的に叩く音。寝ぼけ眼をこすりながら燐が歩み寄る。 「はーいどちら様。鍵なら開いてますよ――あ」  大鎌を肩に担いだ長身の女が、仏頂面で右手を上げる。 「よー泥棒猫。またお前賽の河原をうろついてたろう?」 「客の選別が楽でよろしかろうよ、サボリ魔死神。安心しな、あたいが持ってったのは極悪人ばっかりさ。こう見えてグルメだ」  小町は燐の軽口を鼻で笑い飛ばした。 「ものには順序とタイミングってもんがあんのさ。無粋な地底暮らしにゃわからんだろうが。それで、うちの上司殿はまだご逗留かい? 帰るにも難儀だろうって迎えによこされたが」 「さすがは閻魔様の根城だねえ。いるにはいるが、ありゃ出てこられるかどうか」  眉を寄せる小町の耳に、喧騒が近づいてきた。 「あーはいはいはいはい、もう面倒は見られないんです察してくださいって! そう、あなた方は少し誰彼構わずなつき過ぎる」  映姫の声の後に続くのは、様々な鳥獣の鳴き声や足音羽音の数々。当人は三途で別れた時と同じパーカー姿でペットたちに追われながら入り口までやってきた。 「――いつの間にブリーダーになられたんですか、映姫様」 「あら小町。また性懲りもなく、こんなところまで遊びに来ているのかしら?」 「仕事ですって。十王さん方が謹慎を解くそうで、いろいろ預かってきました。仕事が山積みなんで、すぐ登庁してもらいたいそうですよ」  風呂敷包みを差し出す。中身は十王から預かった悔悟の棒と浄玻璃の鏡、そして制服。  彼女はわかりきったように、それを受け取った。 「ご苦労様――私一人がいなくなるだけで山積みになる仕事って、どうなのかしらね」  包みを紐解くと、悔悟の棒を右手に、浄玻璃を左手に。  それだけで、映姫の周囲だけ空気が重くなったように感じられた。  彼女につきまとっていたペットたちが、恐れおののいたように距離を取る。 「うん。やはりこれらを手元に置いていないと落ち着かないわ」 「あら、もうお帰りですか」  逃げ去るペットたちと入れ替わるように現れたのは、さとりである。 「いろいろとお世話になりました。宿賃はおいおい」 「いいですってば」 「なあなあで済ますのは、私のポリシーに反します」  手に制服を抱え、さとりに背を向ける。 「この性分は、やはり改められません。改めるとしたら恐らく閻魔の座を辞した後でしょう」 「そうですか」 「ですが――悩み疲れた時にこちらの門を叩くというのも、悪くはない選択かと思います」 「そうですね」 「では失礼を――ほら小町。あなたももたもたしてちゃ駄目じゃない」  軽く手を挙げ立ち去る映姫の背中を、小町は急いで追いかけた。 「パシらされてるついでに、更生管理局まで言伝を頼みたいのですがね」 「あたいの本職を思い出してもらいたいんですが?」 「その本職を正しく全うしてから言いなさいね。私の謹慎中に、ちゃあんと渡航待ちの死者は彼岸に運び終えたのでしょうね?」 「そりゃあ、もう。多分、もう」 「まあそれは後でみっちりチェックするとして。言伝の内容ですが、中有の道で働いてる連中のことです。不正な会計を行っている者がいるわ」 「あいつらも懲りませんねえ。あたいが通りがかる時はまともな商売してんのに」 「それはあなたが度々店の前を通るから、連中が見慣れているせいでしょうが。結局あなたのサボタージュが遠因してるんですよ!」 「――えらいすんません」  映姫に頭を下げるのに躍起になるうちに、小町は一つのことを聞きそびれ、そのまま忘却の彼方に追いやらされてしまった。  地霊の館で、映姫はサトリ妖怪とどんなやり取りをしたのか――。  §  会議室に集まった十王たちは浄玻璃の鏡を通し、小町と同じ光景を眺めていた。 「――幻想のは、これでちぃとは気分転換ができたと思うか?」 「感想を拒否する。おぬしの秘蔵っ子だろうが、自分で判断せい」  閻魔王の問いに対し、転輪王の返しは辛辣だった。しかめ面の鬼神が決まり悪く頭を掻く。 「まあ、おいおい彼奴が悩みから解放されるきっかけにはなりましょう。それがサトリ妖怪の手によってもたらされるとは、少々意外でありましたが」  秦広王のフォローに、軽く頷いた。初七日の死者を漏れなく裁くという「ヒヨコのオスメス選り分け作業を二十四時間ぶっ通しでやるよりキツイ」と称された激務をこなしていたのが、彼である。秦広王が心身ともに追い詰められたことが是非曲直庁の創設に至るきっかけだ。 「彼奴は、自身を追い詰めすぎるきらいがある。自らの役務に悩み果てるのは悪くはないが、たまにはガス抜きせんと精神をやるからな」  閻魔王の前に、白い耐熱スーツを着た職員たちが現れる。彼らが四人がかりで慎重に運んできたものは湯呑み――と呼ぶにはあまりにもおこがましい、赤熱したドラム缶のような何か。  閻魔王はそれを臆せず手に取り、熱がる素振りすら見せずに中身の真っ赤に泡立つ流動物を口に流し込んだ。 「ふんぬぬぬぬぬぬ」  彼は空いた方の片手を血管が浮くほど握りしめる。鼻から炎の吐息を一頻り吹き出した後、額に浮いた汗を拭い取った。 「やはり効くのう、溶解鉛のエスプレッソは。全身焼け爛れるかのごとき苦味じゃわい」 「わしらの責苦も、昔に比べたらだいぶエレガントになったよね」 「十王とて、死者を地獄に落とすのには引け目がある。せっかく責苦を分散することを思いついたのだ、若い閻魔たちには潰されずに頑張ってもらわねばなあ」  身の毛もよだつ風貌の男たちは、呵呵と笑い合った。 (閻魔禁止 了)